Act.07 反発の力。

 月夜の怪盗と最後に接触してから四日が経った。十一月最後の月曜は何だか静まり返って、板山は冷めきったコーヒーを飲んだ。
「不味っ…」
 一口飲んで愚痴をこぼし、上半身裸を隠すためにワイシャツを着ながらテレビをつけた。画面では好みの美人アナウンサーが原稿を読み上げればもうすぐ七時の時報が鳴ることを知らせていた。
 昨日は遅番だった。といっても、別に仕事をしていたわけでもなく、ひたすらに月夜の怪盗の素顔を考えていた。時には紙に上手くもない似顔絵を書いて笑い、無性に彼女の顔が見たくてたまらなくなる。板山はネクタイを緩く締めると車のキーを持ってある場所へ向かった。

 月曜日の一限目。いよいよ寒くなってきて、生徒達の服装はジャージの上下の下に半袖の体操服。手には手頃なバスケットボールを持ってアップを始めていた。そんな生徒達がいる中、制服のままフェンスに寄りかかってそれを眺めている子…未結がそこにいた。
 板山は車を近場に停め、未結に歩み寄ると未結は努めて振り向かないようにし一言目を待っていた。
「君は体育しないの?」
「私、風邪引いてるの」
 触りは他愛のない話から始まる。自分の正体が分からない様に嘘に嘘を重ねて、その嘘がばれない様に駆け引きをしていく。
 こんなに勝ち目の見えない体験をしているのは今日が初めてだろう。今まで自分の正体がばれそうになるなんてことは決してなかった。第一、ここまで踏み込んで来た人間が居る事自体奇跡に近いと未結は感じていた。やっぱり、この人はすごい。何か人とは違う洞察力が備わっているに違いない。
「ねぇ、バスケ以外に何か体育で好きな競技ってある?」
 ふと聞かれた問い。板山は何を思っているか判らないが、未結は答える。器械運動と。すると板山は言った。新体操とか好き?
「床の競技とリボンならしたことあるわよ」
「じゃあ、ワイヤーとリボンどっちが扱いやすい?」
 ぞっとした。数言前は確実に普通の会話だったというのに、今は確実に正体を突き止めようと確信に迫った問いだ。未結は瞬間言葉につまりかけたが、ここで詰まってしまっては自分が怪盗であることを認めてしまう。それだけは避けるべき事。未結は今一度深呼吸をすると、凛とした表情で言った。
「リボンよ。なんでワイヤーを代わりに使わなきゃいけないの?」
 未結がそう答えると、板山は俯いて鼻で笑い「まぁね」おどけてこう言った。
「君が最近巷で有名な月夜の怪盗に似ていたからちょっとアンケートを」
「そういうのって、ちゃんと裏を取ってからじゃないと侵害なんじゃないの」
おどけたのが癪に触って未結は皮肉めいて板山を見つめる。板山は再度そうだねと言うと急にフェンスから手を伸ばして未結の肩をつかむ。何するの?未結が驚いた様子で振り向きかければ、板山は真剣な表情を見せる。
「でも、俺捕まえたい。あいつを」
 未結がその表情を横目で見惚れていると、強くつかんでごめんね。板山は肩から手を離す。気付けば体育は終礼を迎えていて。未結はショートボブの髪をそっとかき上げ一歩踏み出すと板山に向かって言った。
「月夜の怪盗はそう簡単には捕まらないと思う。見つけたい人がいるから…」
 彼女の一言は奥深くそして彼女が板山に宣戦布告を告げた一瞬だったかもしれない。

 夕方四時。学校も終了し帰路についた未結はただいまというはずが大きな声で叫び声をあげてしまった。
「に…に…西沢先生!」
「おぉ、未結。おかえり」
「おかえりじゃないし!なんで西沢先生がいるの、内山さん!」
 状況が全くつかめないと言わんばかりに未結が内山に詰めよると、さもあたり前の様に客と答える内山。まぁ確かにそれだったら西沢がいてもおかしくはない。客としてきちんと注文してエスプレッソを飲んでいるし、内山とだって楽しく世間話をしていただけだ。でも、未結は納得できなかった。カフェならここより学校に近い所はいくらだってある、なのにわざわざ此処に来るなんて未結には理解しがたいことだった。未結は自分もツカツカとカウンターに歩み寄って座り、西沢を見つめると怪訝そうな目で言った。
「先生、本当は純粋な客じゃないでしょ」
 すると西沢は微笑して未結を見、頭をぽんぽんと叩いた。なんで笑うのよと問えば「なんでわかんねん」と西沢。客であることは本当だが、未結を茶化しに来たのも事実らしい。未結は頬を膨らませてぶぅたれると、腹いせに西沢のエスプレッソを取り上げ一口飲んだ。が、元々のめやしないコーヒー。未結は一口飲んで顔を上げると西沢にカップを突き返した。
「不味…」
 この世の飲み物とは思えないと言いたいぐらいに力を込めて言う未結。西沢は「意外と子供なんやね」戻って来たカップに口付けすると、未結の頭を大きな手でかき回した。当然すぐにそれはやめさせられ、未結が内山からカフェオレをもらったのを確認してまた、西沢は微笑ましそうにエスプレッソを飲んだ。
 夕方から夜に移行してにぎやかだったラコンドも常連客が引いて残りは西沢だけとなった。
「ねぇ、まだ帰らないの?」
 静かな店内で勉強をしていた未結。内山も片付けを済ませかけている状態だというのに帰る気配を見せない西沢に未結は声をかける。二杯目を飲んでいた西沢は未結と目が合うと「お前が勉強できるか見とこか思おて」なんて微笑交じりにそう言うもんだから未結も「別に見てもらわなくてもいいわよ」としていた数学のノートを隠し、西沢に向かって舌出しする。
「私は普通の人と同じくらいできますよぉだ」
「せやけど、そこの問題。間違うてるで」
「え?」
「大問四の四番。そこ六やのぉて八や」
 西沢に指摘され、未結はすぐさまノートを見る。
「ほら、ここは二かける三やなしに二の三乗。二の三乗はいくつ?」
「…八」
「正解」
 優しい目で頭を撫でてくる西沢に指摘されて腹が立っているはずの未結だったが、先ほどとは違い温かいぬくもりに包まれ、怒りなどいつの間にか消えてしまっていた。
「…未結、未結起きりぃ。さすがにそんまま寝んのは寒いと思うよ?」
「…え?」
 誰かに呼ばれ顔を上げるとマスターの格好から私服に着替えた内山がいた。どうやらあのまま眠っていたらしい。隣にいたはずの西沢も帰り、聞こえるのはテレビの音と時折通る自転車の音だけだった。未結は次第に正気になっていき近くのノートを片付けていると、ふとそのノートの端に書かれたメモ書きに目がいった。
 書いたのは西沢のようだ。たった一言筆記体で『眠れる美女』と書かれたそれは未結の恥ずかしさを沸き立たせた。
 あぁとうなだれる未結。その隣では内山がよしよしと背を撫でる。けれども一向にその場から立ち上がるような感じはなく、次第に冷えていく未結の体を見かねた内山は抱き上げた。お姫様抱っこで。
「ちよっ…何するのぉ!」
 驚きの展開に未結は内山の腕の中で暴れる。内山は今にも魚を落としそうな新人のアナウンサーばりの状態になっていたが、「怪我したいん?」と耳元で未結に言えばしゅんと大人しくなる。
「しばらく眠りぃ。疲れとるんやからさ」
 二階に上がりベッドヘ降ろすなりそういう内山。未結は別に疲れてないのにと思ってはいたが、次第に襲いくる睡魔に勝てず、内山の言葉に甘えることにした。

×××

 ふわりふわり…。
 甘い雲の上で横だわっていた未結が目を覚ます。一面はピンクの綿菓子雲。自分は怪盗の服装をしていて、手には大事そうに輝く宝石を持って。
 立ち上がって未結は周りを見渡すと、何人かに囲まれているのに気づき身を潜めた。
 一人目は的場、優しく未結の名前を呼んでいる。
 二人目は内山、心配そうにあちこちを眺めていた。
 三人目は裕太、痛む体に鞭打って、涙目になりながら未結を探していて、四人目の西沢と共にこちらへと近づき。背後からは…。
「捕まえた…」
「うわっ!」
 誰か分かることなく目を覚ます。未結は落ちてベッドの下で起き上がると自室であることを確認し大きく深呼吸した。
 なんとも寝起きの悪い夢だった。耳元で捕まえた、なんて未結にとっちゃ死ぬより怖いことだ。
「勘弁してよ…」
 未結はおぼつかない足取りでドアノブに手をかける。すると、自分が開ける前に体ごと外へと引っ張られた。
 開けたのは内山だった。未結の大声とベッドから落ちた衝撃に驚いてやってきたらしい。相当な慌てぶりで、ドアノブを掴んでいる手は泡だらけで、下からは出しっぱなしの水の音。皿でも割ってはいないだろうか。
「平気なん?」
 意識を泡や水音へ飛ばしていると、目の前で泡だらけの手が振られているのに気づき、未結はそちらを向く。内山は心配した様子でこちらを見つめていて、何度も平気か?と問いかけてきた。未結はそこまで心配しなくていいよ、そう答えると内山に水を止めるよう指摘し、泡だらけのドアノブを拭いて閉めた。

 水曜日、いつものように傲慢なセレブの人から不当な手段で奪われた物品を取り返しに。木曜日、都会に行きいつぞやのやくざから受けた依頼を果たしに。そして金曜日、仕事内容もハードになり体にも負担が出始めた十二月初めの依頼は困難を極めるものだった。
 裕太のいない教室にいるのは酷で昼休み早々図書室へとやってきた未結。別に読みたいような本はなく、その辺の棚から本を取り出すと反対側の棚に寄りかかって暇をつぶしていた。
 と、十五分くらい経った頃だろうか。バイブ機能になっていた携帯が震え、未結に電話が来たことを教えた。
「もしもし」
 図書室から出た寒い廊下で電話を取った未結は、微かに怒気を含ませて返事をする。相手は内山で、その不機嫌なのを察すると、こちらもはぁとため息。
「寒いしきついのも分かるけど、仕事やけんさ。聞いてくれん?」
 神妙そうな声で言う内山に、これまで不機嫌だった未結が妙な違和感に包まれる。
「どうしたの?」
 内山に詰を進めてもらおうと未結が促すと、次に放った内山の言葉は余りに非現実的なことだった。
 「警察の改竄データを取ってきてほしい」
―なんかね、依頼者の名前は書いとらんかったんよ。で、内密に動いてほしいらしくって、人のいない今週の日曜日の十一時がベストなんやって。盗んでくるのは署長室にあるパソコン内の帳簿データ。パスワードは机の一番上の引き出しを開けた裏側に書いてあるって。ただ…。
「十一時五十九分。それまでに出てこないと警備員が回ってくる…と」
 金土をはさんで日曜日。学校のない朝を迎えた未結は早々にベッドから机に移ると、いつもの予告状の紙に手を伸ばした。青いペンを持ち、すらすら言葉を並べていく。彼以外には会いたくないから注意書きをつけて。
「板山さんにばれませんように。でも…会えますように」
 午後二時過ぎ、いつもよりゆっくりめに現れた板山。気分は珍しく下がり気味で、堤田の愚痴にも返答する力がなかった。いた山はさり気に近寄って暑苦しい堤田を押しのけて席に座ると、一杯紅茶を飲もうかと引き出しを開けた。すると、初めに目がいったのは紅茶の袋ではなく一枚の紙だった。
『板山さんへ。今日の夜にあなたの上司が使っているパソコンから帳簿データを盗みに参ります。あ、でも堤田さんには内緒で。あの人は乱暴で嫌いだし。それでは、今宵あなたと会えることを楽しみにしています。月夜の怪盗より』
 かわいらしい字体、それに見合った言葉に板山は予告状であるにも拘らず笑みがこぼれる。特に堤田の件に関しては同意見だと言わんばかり。 
 その様子を見て堤田が不審そうに見つめると板山は我に返ってさり気なく紅茶の葉を出すと白湯の中にティーバッグを入れた。

×××

「そろそろ準備しようかな…」
 午後五時を回った頃、クローゼットから未結は衣装を取り出した。
 随分と着古し、最近では危険な仕事ばかりが来るので綻びはあちらこちらにできてしまっていた。一番酷いのは左袖の辺りで、撃たれた時についてしまった血が取れずに未だ生々しい跡を残している。
 未結はその衣装を両の手で掴んで掲げると、苦笑した。
「って…これじゃさすがにまずいかなぁ」
 左袖の綻びに指を差し入れて綻びの広さを確かめる。見事に三本の指が入り、ただでさえ寒い衣装にさらに寒さを引き立たせた。どうにかして修繕しようと未結がベッドの下からソーイングセットを取り出すが、生憎見合った素材がなく、下で仕事をしている内山に聞く。
「ねぇ内山さん。ちょっと…」
 自分を呼ぶ未結に内山は手を止めて階段下まで近づき、耳打ちされる。
「衣装に合った素材はないか」
 しかし、実は内山も綻びを直そうとしていたらしいのだが、自分も素材がなくて断念したとか。未結はしばらく考えた後、内山からいくらかお金をもらうと、自室からマフラーを取って裏地にひとつだけある手芸用品のお店へと足を運んだ。

 糸と布と後惹かれたアクセサリーキットを一つ。それを袋に入れてもらった未結は時間を気にしつつ店を後にする。店に入ってみると意外に気を惹くものが多くて、気付けば六時を迎えそうな感じ。六時には帰って来んといかんよ、と念押しされていたというのにこの有様。未結は慌てた。
「誰も見てないよね?」
 店の路地に入り、周りを確認する。普通の女子高生が二メートルを超える壁を越えようとしている所なんてあんまり見せられるもんじゃないし、それにワイヤーを使うとなれば、正体がバレかねない。未結は慎重に確認をすると手首に装着しておいたワイヤーを口で引っ張りだして壁の向こうへ投げる。くんっと引っ張って引っかかったことを確認すると未結は一目散に駆け上がった。が…。
「水色…」
「へ?」
 飛び越えた先に一人の老人がいて、しかも飛び越えている下からスカートを覗き込むようにして立っていた。未結は驚きと恥ずかしさで着地をしくじりそうになったがそこはなんとか持ちこたえる。
「あんた、かわええ足しとるねぇ」
 背後からねっとりした声で言われ、未結は背筋がぞっとする。ただの変態じじぃとは訳が違いそうだ。
「あ、あの…肩に乗っている手を離してはくれませんかねぇ」
 あまり触発しないように未結はやんわりと拒否の色を表す。しかし、老人は肩から手を外そうとはせず、それどころか未結が無理に手を外さないことを良いことに太もものラインを触り始めた。これには未結も耐えきれず、太ももを触っていた手を握る。
「お爺さん、これなんて言うか知ってます?」
「…何がだい?」
「こういうことをするのはねぇ…痴漢って言うのよ!」
 しらばっくれる老人にキレ、未結は握っていた手を雑巾のように絞り老人を怯ませる。その隙に走り出して老人から姿をくらました。
 曲がり角を曲がり、一時目の前の道を疾走する。家までの道が分かってきて、未結は次に現れる路地を左に曲がった。
「っわっ!」
 と、そこに道を塞ぐように布を被せてあるテーブルが現れ、未結は急ブレーキをかける。目の前にはまたもや不審なご老人。さっきあんなことがあった後の未結は思わず身構えてしまう。だが、よくよく見てみると未結や内山も顔なじみの情報屋さんであることに気付いて笑みがこぼれた。
「なんだ、恭さんじゃん。こんな所に隠れてどうしたの?」
 恭さんとは、内山達裏関係の人間に情報を流す情報屋さん。普段は普通のおじさんとして生活しているはずなのだが、今日は何故かこんな所にスペースを構えて座っている。滅多にスペースを構えるなんてことはしないのにだ。
 未結がその様子を不思議がって見ていると、恭さんは思い出したように未結を呼ぶ。首を傾げて未結が返事をすると、恭さんは耳を引っ張って未結にこういった。
「あんた、狙われてるよ。誰かに陥れられようとしている」
「私が?」
 恭さんの言葉に、未結は豆鉄砲をくらったかのように驚いてみせた。私が陥れられようとしている?まさか。
「私は別に恨まれるようなことしてないし。第一、そこまで何でもやれる怪盗さんじゃないのよ?」
 未結はそう言うが、恭さんはいっこうに納得しない。そして何度も狙われてる。気をつけろと未結に言い寄ってくる。そう言われても未結だって納得できない。どうしたものかと未結が考えあぐねていると、遠くから定時のチャイムが流れてきた。六時らしい。
「大変!」
 未結は自分の状況を思い出すと、恭さんにひとつ礼をし彼を飛び越える。静止の声が飛んでいたがそんなの気にしていられない。後ろを振り返らず未結は急いでラコンドまで帰った。
「遅いよ。待ってたんよ?」
 ラコンドに滑り込んで第一声。未結は内山に叱られた。
 もう早々と店を切り上げ、片付けも済まし待っていた内山。衣装片手に未結から買ったものを受け取ると、カウンターに準備しておいたソーイングセットの蓋を開けて、修繕に取りかかった。

 それにしても今日の仕事はいつも以上にハードだ。警察署の近くの廃ビルから忍び込んで、十五階にある署長室のパソコンの中にある帳簿データを内山が預かったメモリスティックにコピーするという一連の仕事。九時半には全ての電灯が消え、それがスタートとなる。時間としては脱出も含め二時間しかなかった。
「できたよ」
 隣で修繕していた内山が未結に声をかけた。未結は衣装を受け取るとカウンターに突っ伏す。
「私…ちょっと自信ないかも」
「どしたん、突然」
 弱音を吐く未結に内山は心配そうな顔で頭を撫でる。未結の体は微かに震えていて、内山はゆっくり未結の目を見ると言ってみ。優しく声をかけた。しばし黙った後内山を見つめた未結はぼそりと呟いた。
「今日ね、これの素材を買いに行った時恭さんに会ったの。で、恭さんは私に『君は狙われてる。誰かに陥れられようとしているんだ』って言われた」
「うん」
「その時は別に気にしてなかった。今これ直してる間、仕事のイメージトレーニングしてたの。でも、どれも失敗の道しか見えなくて」
 言葉にする度弱々しくなる未結。と、それを包むように内山が抱きしめた。本当は内山だって未結が仕事失敗で帰ってこないんじゃないかって思うくらいの気持ちで待ってる。未結が不安に思えば内山も不安になるのは必至だった。
「大丈夫やって。未結はドジで良く窓の桟に足ひっかけちゃうけど、怪盗として立派になるけん」
 だから自信持ちぃ。内山が優しくそう言うと、未結の顔から不安が取り除かれ、笑顔が戻る。
「じゃあ着替えてくるね」
 二階へと上がる未結。その後ろ姿を見ながら内山は今日未結を守ってくれる銃に手をつけた。

×××

 警察との直接対決。未結は右手でワイヤーを準備し、左手のリストバンドの裏にメモリスティックを隠して警察署へ潜り込んだ。
 屋上の鍵は脆くノブを捻っただけで開き、未結は一瞬我を疑う。本当に用心していないのかと。しかし油断はしないでおく。なぜならこの中にあの板山がいて、もしかしたら屋上の鍵もわざと壊したのではないかと疑えてしまうからだ。だから未結は慎重にドアを開け階段を降りていった。
 金属製の階段を音立てないように歩き、署長室の前まで辿り着く。簡単すぎる侵入にドアノブに手をかけるのをやはりためらってしまう未結。
「…ドアが今度も簡単に開いたらどうしよう」
 自分から罠にはまってしまったらどうしようという疑懼が生じ、足が竦む。
 こんなことは初めてだった。いつもなら軽々と盗み出してしまえるのに、今回は足が竦むほど怖い。このドアの向こうから感じる何者かの威圧感のせいなのか。それとも敵に回したのが頭のキレる板山だからなのか。未結の脳内でいろんなことが巡り、今にもパンクしてしまいそうだった。
 しかし、時間は止まらない。刻一刻と時は迫っている。意を決して未結が扉を開けると、そこには意外な人物が椅子に悠然と構えていた。
「遅かったね」
「あんたは…」
「自己紹介してなかったよね。俺は…千年狼」
「千年…狼」
「そう。よくできました」
 もう一人の怪盗…千年狼は未結を見るなり満面の笑みで会話を振る。状況が飲み込めず立ち尽くしていた未結は体勢を立て直すべきだと後ずさる。しかし、それを許すことはなく千年狼がドアへナイフを投げ、退路を断った。
「逃がさないよ」
 千年狼の声に未結は怯んだ。ただでさえ足は竦み、頭での理解に苦しんでいるというのに入った先にいたのは板山じゃないし、退路は断たれるし。
「なんなのよ…」
 吐ける言葉はそれしかなかった。

 千年狼はパソコンのディスプレイを見た。チャイムが鳴り十一時になったことを知らせている。
「十一時になったね」
 危害を加えるわけでもなく、未結を見つめていた千年狼が呟く。未結はナイフを必死に外そうとして焦りを見せていた。逃げようとしている未結に千年狼は楽しそうな声色で問いかける。
「この仕事投げるの?」
「これはあんたが仕組んだことでしょ」未結は千年狼の問いに怒気を含ませて答えると、ナイフを抜く作業を止めて向き直った。
「よくわかったね」
「おかしいと思ったもの。この警察署、脱税とかできるほど偉い所じゃないし、アホな署長がそんなことできる頭はないはずだしね」
「それでもきちんとくる。姿勢としては良いと思うよ」
「どうも」
「でも、仕事は選ばないとね」
 千年狼の言葉に未結は首を傾げる。千年狼は気にせず何かのボタンを押すと署長室はもちろん全ての部屋の灯りがつき、警報が鳴り響いた。
「何するの!」
「この仕事は俺が仕組んだ。今君の恋人を呼んだからじっくり鬼ごっこを楽しむといいよ」
「ちょっ…あいつは恋人じゃ…」
 窓の桟に座る千年狼を殴ってやろうと走り込んで行ったが、背から彼は落ちていき、光の海へと消えていった。

 八方塞がりになった未結はとにかくここから逃げようとドアを蹴り上げた。けれど上手くいかない。意外にも頑丈な扉は未結の蹴った跡以外びくともしなかった。
「これしかないか」
 未結は最終手段と言わんばかりに太もものホルスターからバレッタを取り出すと大声で言った。
「ドアの近くにいたら死ぬわよ!」
 板山やそれ以外の人間の返事はない。未結は思い切って安全装置を外すと二三発ドアに向かってぶっ放した。
 金属の擦れる音がして開くドア。顔だけ出して誰もいないことを確認し、未結は地上へ走った。

 自分の机に寝かされていた板山は警報の音で目が覚めた。まぶしい電灯、けたたましいほどの警報に寝起きは最悪だった。
「頭痛ぇ」
 頭痛が酷く、胃がキリキリと痛む。何か悪いものでも口にしたかと記憶を辿る。が、署内に入って予告状を読み紅茶を飲んだところまでしか覚えていない。そこでふと自分が己の意志で寝ていたわけではなく、薬によって眠らされていたことを知った。
 板山は自分の不注意さに呆れつつ、警報が鳴っているということは、怪盗である未結が侵入したのだろう。そう察知し、引き出しから銃と手錠を持ち出すと未結を求めて駆け出した。
 廊下へ出ると二三回銃声が聞こえ、板山は思わず足を止めた。誰かが撃たれたのかと思ったが、どうやらそうではなさそうだ。階段近くまでよってみると人が降りてくるのが分かる。きっと未結だろうととった板山は銃を取りやすい位置に仕舞って深呼吸すると一気に駆け上がった。
「下りってきついわよ」
 その頃も解いた場所から六階下まで降りてきた未結は膝ががくがくし始めて踊り場にしゃがみ込んだ。一瞬エレベーターを使ってやろうかとも考えたが、やはり密閉空間のエレベーターでは捕まえて下さいと言っているようなもの。楽したくても乗るわけにはいかなかった。
 未結がしばらく踊り場で休んでいると階の下の方から人の声が聞こえた。板山だった。
 板山は何度もどこにいるんだと叫び、腰に掛けているだろう手錠は彼の位置を知らせるかのごとく揺れていた。
 それに気付いた未結は急いで立ち上がり踊り場下の扉からフロアへ出ようとする。しかしフロアへ通ずる扉は固く閉ざされていて、脱出用の手榴弾を取り出すとピンを外し、扉へと投げつけた。
 強い爆風が階段中に吹き荒れる。板山と未結は共に爆風に煽られながら己の進むべき道を行った。
 フロアに出た未結はまず、別の退路がないかと辺りを見回した。エレベーターと喫煙所と麻薬密売対策本部と書いてある部屋。そして背後の階段。逃げ道という逃げ道は存在しなかったのだ。

―――。

 下からは板山が上がってくる足音、進めばさらに行く手は塞がれ。未結はもうこれしかないと窓目掛けて銃を放った。一枚の窓ガラスは見事に粉々に砕かれ、下の道に人はいなかっただろうかと眺める。幸いにも人はいなかったようで、ガラスが散らかった道路を時折数台通るだけだった。未結は取れそうなガラスの破片を除き、桟へ手をかける。だが、後ろからの力に体は反り返り板山の腕の中へと引き込まれた。
「捕まえたっ…」

×××

 怪盗を見つけた時、下へ身投げでもするんじゃないかと思った。そんなわけないと思っても手は怪盗の服を掴み、自分の元へと引き込んだ。怪盗であることより何より君に会いたくて。

 引き込まれた時、もう終わりかと思った。そんなの嫌だと思っても体は宙を舞い、板山の腕の中へ引き込まれた。警察であることよりなにより、貴方のぬくもりが心地良くて。

 ぎゅっと抱きしめられて私は何故か跳ね上がる鼓動を抑えつつ、板山に放してと願い出た。けれどそううまくいくわけなく、放さないと言われ私は黙る。
 『どうしよう』頭の中ではぐるぐるとその言葉が巡り、体は次第に強張っていく。心臓の鼓動も抑えられない所まできて、後ろから抱き締めている板山に伝わっているんじゃないかと思った。
 時は過ぎ、そろそろ脱出まで後三十分となった頃、徐に板山は抱き締めていた腕の力を抜くと呟いた。
 「顔、見せてくんね?」
 私は聞いた瞬間、クスリと笑って首を振った。さっき自分は願いを聞き入れてはくれなかったのに、私にお願いするの?
 「それに私は正体がばれる訳にはいかないの。分かるでしょ」
 すると板山はまた黙り込む。私は今のうちに逃げなければというのが働き、照明を壊して板山の脇をすり抜けようとした。でも…。
 腕を掴まれ壁に押しつけられ。貴方は逆光で私は貴方の顔を微かにしか捕らえることができなかったけど、確実に。貴方は盗人の私からその唇を奪った。
「お前が…好きだ」
 胸の奥に突き剌さる板山の言葉。私はもう何か何だか分からなくて、とにかく逃げなきゃと板山をどけて逃げる。今度こそ腕は掴まれることはなく、破壊した窓から飛び下り、ビルの陰へ逃げ込んだ。

 胸が痛い。涙が止まらない。指で唇をなぞれば感触が残って切なくなる。
 やっと気付いた。私は…あの人が好き。
「ごめんね…裕太」


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