Act.10 月夜の女神。

 早く目よ覚めろ!板山さんを助けなきゃ。じゃないと、また大切な人が死んでしまう。だから、早く目よ覚めて。私にもう同じ苦しみを味あわせないで!
 ぐっと、目元に力を入れ現実の世界を見るために瞼をこじ開ける。次第に視界がはっきりしてくると同時に背中に激痛が走ったが、そんなことはどうでもいい。未結は急いで状況を把握しようと自分自身に叱咤しながら、体を捩らせて辺りを見回す。周りは血の海になっていて思わず悲鳴を上げそうになったけれど、自分の背中から感じる温かさに気付き泣き叫ぶことはなかった。
「板山…さん?」
 そっと未結が呼ぶと、微かな声で「大丈夫」の声。どう聞いたって大丈夫な訳がないのに、未結に心配をさせないよう優しく声をかけていた。
「…れは、…平気だ。お前は…、きなのか?」
 未結の容態にまで気を遣ってくれて、未結はまだ助かったわけでもないのに涙があふれそうになる。が、そう簡単に泣いていい訳がなく、未結達の周りを取り囲んでいた男達の一人が未結の前に歩み出るとしゃがみ込み、思い切り下腹部へ殴りを入れた。
 息ができなくなるくらい強い拳に、未結は恥ずかしくもだらしなく口を開け酸素を求めて呼吸を繰り返した。殴った男はその様子が面白いようで、もっと顔をメンバーに見せてやろうと、未結の髪を掴んで引き上げる。周りの男達もそれを見てゲラゲラと笑う。未結にしてみれば、屈辱以外のなにものでもなかった。
 ふと、そこで両の手で二度誰かが手を叩く。すると、髪を掴んでいた男もすっと下がり、笑っていた男達もピタリとその下衆な笑いを止めた。
 誰が?止めたのか知りたくて、未結はゆっくりと気配のする方を見る。そこに居たのは知り合いで、しかも同じクラスのあの男だった。
「黒塚…君?」
「やぁ、月浦さん。とてもいい恰好だね。俺はそういうの好きだよ」
 未結は言葉を紡ぐことすら難しく、丸い綺麗な瞳は大きく開いて黒塚を見たまま、絶句してしまった。
「何で…何で黒塚君が…」
「あれ?気付いていたんじゃないの?俺はとっくの昔に俺の正体を見破られていたと思っていたよ。特に君の家の喫茶店に行った時なんかは、あのマスター全く酷いカフェオレを出してくれたもんだよ」
 黒塚…って名前覚えがないかなぁ?黒塚は未結の前にしゃがみ込んで顎の下に手をやると、くいっと自分の方を向けさせ微笑みかけた。黒塚?未結の頭の中でフル回転する記憶達。ふとそこで、一つの依頼を思い出した。
 堅気になりたかった男の人に頼まれてした仕事だった。入れ替わったうさぎのぬいぐるみを取り返して欲しいってやつ。そういえば、その時対峙したやつの名前も黒塚だったような気がする。ということは、それが今目の前にいる黒塚君の父親で、彼自身は黒塚組の跡取りだというのか。未結が顎に触れられた手を振り払って黒塚を見つめると、思い出したんだと言わんばかりの表情を未結に向け、黒塚は笑った。
「そうそう。そいつだよ、俺の父親は。まぁ、父親としてもやくざの組長としても腐れたやつだったけどね」
 あんな奴は警察に捕まって当然さ。黒塚はそう言って立ち上がると、取り巻きの男の一人に合図を送る。指名された一人はポケットから粉の入った袋を出すと黒塚に向かって投げ渡した。
「俺は、あいつの取引の仕方。ヤクザという古びた組織に心底嫌気がさしていた。だから、俺は考えた。これから先の時代はネット上での組織をあちこちに作る。そうすれば、売上は伸びる一方。上手く行けば警察だって手出しできないくらいに強大になる。…変えてやるんだ。こんな廃れた組織。でも、そのためにはヤクの生産地が書かれた絵画を守らなければならない」
 黒塚はそこまで言うと、指を鳴らしてまた合図を送った。すると、黒塚の背後にいた男達が四人掛かりで小さなカンバスに描かれた絵を持ってきた。月夜に浮かんだ一人の女性が描かれたその絵は、妖艶で美しく少々遠目で見ていた未結も息を呑むくらいだった。
「それが、月夜の女神」
「そう。そして君はこれを盗みに現れた。俺達の計画を知っていたから」
 黒塚がそう言った瞬間、未結はもちろん板山も絶句した。それはそうだ。未結からの手紙にそんなことは書いていなかったわけだし、未結自身も依頼に組織を潰せとは書いてあったが計画を教えられていたわけじゃない。未結は狼狽して、ただ黒塚の言葉を聞いた。
「やはり殺さなければならない。そうだよな、千年狼」
 そして、黒塚の凛とした声に誘われるかのように、倉庫のドアが開き、そこから千年狼は静かに入ってきた。
 右手にはいつか未結が落としたベレッタを持ち、蔑んだ目は未結を捕らえて離さない。
「勝負あったようやなぁ…月夜の怪盗」
「千年狼…」
 二人にしか分からない会話。既に力が入らない板山は微かに聞こえる声に耳を傾け、未結と約束した事を必死に守ろうとした。見届ける事、捕まえようとする事、そして…。
「愛してる…」
「板山さん…っ」
 好きでいることを。
「怪盗さん、悠長に背中を向けている男に気を配っているところやあらへんで。そろそろ神にお祈りしたがえぇんちゃう?懺悔とともに…自分の両親に会えますようにてなぁ」
 未結は目を閉じた。
 内山や的場と約束した事を破ることになるのは目に見えているが、もうこれ以上足掻くのがきつくなってきた。今から、太ももにあるベレッタを取って千年狼を撃とうとしたって、きっと間に合いはしない。後ろにいる板山を助ける事ができないのなら、ここで一緒に死んでしまおう。結局、私は臆病なのだ。
 未結は、目を閉じたまま千年狼に向かって笑みをこぼした。
「さよか。もう全部したい事は済んだか」
 千年狼の声が遠く聞こえる。あぁ、もう天に召され始めているのか。板山さんはどうなんだろう。
 未結の頭の中は苦しみから解き放たれた後の事でいっぱいだった。
 どこかで撃鉄があがる。カウントダウンの始まりだ。
 ほら、一緒に数えてご覧…。
 さん…にぃ…。
 
 いち―――。

×××

 遊んでくれたご主人様。僕はそんなに乱暴に扱うものじゃないんだよ。
 右手を千切らないで。痛いから。
 左腕を切り裂かないで。血でお洋服が汚れてしまう。
 僕はもう限界だ。ご主人様に仕えるのはもう飽き飽きしたよ。
 だからご主人様。恨むなら貴方自身にしてください。
 僕は何も悪くないから。僕は…ちゃんとした人間だから。

×××

 苦しみに喘ぐ声が聞こえる。でも、私の声じゃない。そう思って未結が目を開けると千年狼が向けていた銃はこちらを向いてはなく、左腕と脇の間を縫って背後に居た黒塚の左腕を向いていた。
「…はぁ…っ、く」
「悪に満ちた世界がこの世を支配するんやったら、俺はそれを駆除してやる」
「千年狼、裏切ったな!」
「裏切る?裏切るとは信用している奴に対して反する行為をすることやで。俺は最初からあんたのこと信用してへん!」
 千年狼の声に、男達は触発されてパイプを持ち襲いかかる。その一瞬目を離された未結達は、この期を逃す訳には行かないと、未結が持っていた小型ナイフで縄を切った。縄から解放されて急いで板山の方を振り向く。板山は微かに息をしており、けれどもはっきりとした意識はなかった。
 未結は自分の口元を隠していた布を取り去り、板山の右肩の血が止まるように応急処置する。しかし、板山の肩から流れる血は止まる事を知らない。随分時間が流れているので、命も危うくなっているだろう。しかし、ここで板山ばかりに構ってられないのが現実。とりあえず、激戦の邪魔にならないように板山を物陰まで引きずって連れて行くと、肩の負担にならないように壁に寄りかからせた。
「絶対、死なないでよ」
 ぼそりと呟く未結。返事は返って来なかったが、急いで絵画を奪わなくてはと、その場を駆け出した。

 千年狼は激戦の中、巧みに体術で敵を薙ぎ払いながら黒塚の近くに居る男達の絵画を狙う。それを見つけた未結は、させまいと必死で絵画の元へ走った。しかし、向こうだってゲームには負けたくないだろう。男達数人に未結の存在を分からせると、未結の方に男達を差し向けていった。
 全く、味方なのか敵なのか分からなかったが、次々にやってくるパイプ男達を未結も千年狼に負けないくらいの体術でなぎ倒す。絵画も次第に手が届きそうな範囲までやってきている。後少しだ…後少し。そうして手を伸ばしていた時、未結は背後から銃で狙っている男に気付かなかった。
「死ねぇ!」
 男の怒声が倉庫内中に響き渡り、銃声は二度鳴った。しかし、撃たれたのは後から銃を構えた未結ではなく、背後で狙っていた男の方だった。何故だと未結がもっと後ろの方を見ると、壁に寄りかからせたはずの板山が利き手ではない左手で銃を撃った姿がそこにあった。
 板山は未結が生きている事を確認するなり、よかったと言葉を紡ぐ。何やってるの!と未結は大声を張り上げたかったが、板山がいなかったら死んでたと思うと、そう強くも言えなかった。
「畜生…っ」
 自分の取り巻きの男達が次々に倒されているのに堪えかねて、黒塚は痛む左腕を庇いながら、右手に銃を握り千年狼に標準を定めた。小声で殺してやる、殺してやると呟いて。けれども、その殺気に気付いた千年狼が銃を弾いて押し倒すと、額に銃を突きつけ彼を脅した。
「間違ったことに気付いてないんかい、お前は!こないなことしても、楽に世の中渡れるわけやないんやぞ!…俺みたいに、間違った道に進むんやない…」
 脅しというより、悲痛な叫びに聞こえた。
 千年狼の声に皆はピタリと動くのを止め、彼の叫びを聞き続けた。
「失ったものはもう戻りはせんのや。ヤクばらまいて、使った人は確かに一時の至福を味わえる。せやけど、元に戻るのに何年も時間はかかるんや!死んでしまったやつなんか、もう戻ってはこんのやで!俺は…、俺はこんな怪盗になりたかったんやない。立派で、人を助ける怪盗になりたかったんに…」
 そこまで千年狼が言うと、額に当てた銃の撃鉄を起こす。
「でも、悪に染まってしもうたら、これこそ後戻りはでけへん。せやったら、一緒に行こか。悪も善もない、無の世界へ」
「…ゃだ。嫌だぁ!」
「西沢!」

×××

 たった一秒の勝負だった。西沢が撃鉄を起こし、引き金に手をかける前に未結がベレッタで西沢の銃を弾き、二人は死ぬ事なくそこに存在していた。
 未結は二人の元へ駆け寄ると、思い切り右手の手のひらを広げて二人の頬をひっぱたいた。二人は何が起こったか分からずそこにいたが、未結の表情を見て思わず息を呑んだ。
 泣いていたのだ、未結は。声も上げずただ重力に逆らえず落ちてくる涙を拭う事もなく、二人の前に立ちつくしていた。
「逃げる気かあんたたちは」
「え…」
「死ぬ事は、何よりも怖くてどんな手段よりも楽になりやすい。けれど命はそんなに粗末に扱うものじゃないのよ!」
「月浦…」
「償いなさい。貴方達がしてきた行為を全て。私に、苦しめた全員に償いなさい!」
 未結の言葉に、二人は黙ったまま頷き気付けば未結と共に涙を流していた。

 遠くでサイレンの音がする。未結は板山を背負って、忘れずに絵画を持つと、背を向いたまま千年狼…西沢に言った。
「ゲームは私の勝ちね」
 西沢はそれを聞き、苦笑しながら「せやね」とだけ答えた。
 ごめんな…。とも言っていたような気がするが、未結は聞かないフリを決め込んで倉庫の外へ逃げていった。

 外では堤田の率いる部隊が倉庫を囲んでいて、未結は板山を堤田が気付くような位置に置いていくとすっと、その場を去った。
「板山!大丈夫か」
「えと…救急車ありますかねぇ」
 屋根の上から救急車で運ばれていく板山を見送る未結。見えなくなると急に緊張の糸がほぐれたのか、その場に座り込んで大きく深呼吸した。
 綺麗な星々が、未結に「おつかれさま」と言っているような気がした。

×××

 後日、未結は夜中に秋地町総合病院へと顔を出していた。
「板山さん、明けましておめでとう」
「…って、遅すぎやしないか?」
「いいじゃない。まだ三が日の間なんだから」
 あれから随分と時間が流れ、同じ総合病院に入院していた裕太もすっかり元気になり、どうやら黒塚がヤクをばらまいた先に裕太の妹千夏ちゃんを引き取った父親が買う人間としていたらしく、千夏ちゃんも裕太と一緒に暮らす事になったと年賀状で届いていた。
「それにしても、平和だねぇ。今までのが嘘みたい」
 未結は窓際に座ったまま、外を眺めて呟く。ベッドから動けない板山は、未結をベッドに引き込みたい一心で手を伸ばしていたが、中々上手い事行かず、その場に項垂れていた。
「あ、そうそう。これ、渡そうと思って今日は来たのよね」
 板山の思いはつゆ知らず、未結は持ってきていた鞄の中から一つの絵画を取り出すと、板山に渡した。それは紛れもなく、あの新月の夜に中一番倉庫から取ってきた「月夜の女神」だった。
「これね、別に盗られた人がいたわけじゃないから、私いらないのよ。事件の重要証拠にもなるだろうから、板山さん。堤田さんに渡しておいてくれない?」
 未結が微笑みながらそう言うので、板山はとりあえず「うん」と頷いておく。しかし、これを見ると板山もあの日の晩のことが思い出されて、少し右肩の傷が疼く。あの日の出来事は今までの何よりも衝撃だったと、後々未結に何度もくりかえし言っていた。未結も未結で、確かにねぇ。なんて笑っていっていたが。
「それにしても…」
 板山がその絵画をじっくり見ていると、あることに気付き呟いた。未結は、首を傾げて何?と板山の方を向く。すると板山は絵画を未結と並べるように見て、「これお前に似てるな」とても愛おしそうに言った。
「妖艶で美しく、怜悧な美貌を持つ月夜の女神。月夜の怪盗の名を持つお前に合ってる。…俺、やっぱりお前のこと好きだ」
 けれども、満足げに語る板山に未結は何度も首を振っていた。板山は、何で首降るんだと未結に問いかけたが、未結は何も言わず時計を眺め「あぁ、もう帰らなくては」としらばっくれた。
「んじゃ、私もう行くね」
「おい、ちょっと。未結!」

 ごめんね、警官さん。私は貴方に捕まる訳にはいかないの。
 私の存在がなくなってしまうから。


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